香りから生まれる「癒し」と「集中力」
コーヒーを淹れたときの、あのふわっとした香りが好きな人はきっと多いはず。その独特な香りには、人間の脳に働きかける二つの効果があることが分かった。
コーヒーショップに足を踏み入れたときの、なんともいえない香り。自分でコーヒーをドリップするときに湯気とともに立ちのぼるあの匂い……。コーヒー好きならずとも、心地よい気持ちになるだろう。
そのコーヒーの香りが、人の脳に影響を与えることが分かった。それもコーヒー豆の種類によって効果が異なるという。実験を行った杏林大学医学部の古賀良彦教授に話を伺った。
生き抜くために必要な嗅覚が、なぜ退化してしまったのか。
「本題に入る前に、まずは匂いの重要性について考えてみましょう。匂いは人間をはじめとするあらゆる動物にとって、とても大事なもの。能力のバランスが悪い生物ほど、匂いをかぎ分ける力が発達している傾向がみられます」
例えばモグラ。視力がほぼ失われている彼らが土の中で暮らしていけるのは、匂いをかぎ分ける能力があるからだ。古賀教授によると、匂いは大きく分けて二つの働きを担っている。一つは、自分の行動範囲を他者に知らせること。マーキングという行為は敵に自分のテリトリーを知らせたり、あるいは求愛のための行為だったりする。匂いは種の存続のためには欠かせない。 もう一つの機能は、食べてよいものと悪いものを識別することだ。
「四本足の動物は鼻が先端についていますね。それだけ大事な機能を担っているということです。自分の命を維持するために有益かそうでないかを一瞬のうちに見極めるためにクンクンと匂いをかいで判断しています」 動物が生き抜くために必要な機能が「匂いをかぐ」という行為だ。動物からその行為を奪うことは、すなわち「死」を意味する。食べ物が安全かどうかの判断や敵が近づいてきたときの察知能力が弱まることは、子孫繁栄のための機会の喪失などを引き起こすからだ。ところが、人間は嗅覚が退化してしまった。「人間は外界の情報の7~9割は視聴覚、いわゆる『見る』『聞く』に頼っています。人間はたとえ嗅覚がなくても生きていける。蓄膿症になっても人間は死にませんし、自動車を運転するときも視聴覚からの情報があれば、なんとかなりますから」 いったい、どうしてこうなったのか。
人の気持ちを揺さぶり、遠い記憶を呼び覚ます。
嗅覚をつかさどる部分は、脳の前頭葉にある。ところが、人間は前頭葉が高度に発達したがゆえに、嗅覚をつかさどる部分の割合が追いやられてしまったのだ。
「他の動物と比べて、人間は物事をクリエイトする能力が特異的に発達しました。犬や猫は100年前から何も変わっていないけれど、人間はさまざまな産業をつくり、コンピューターを生み出し、100年前とはまったく異なる暮らしをしています。それは大脳新皮質という部分が発達したから。しかし、それと引き換えに、動物的な本能の部分を覆い隠してしまったのです」
人間が文化的な暮らしを営むことによって、嗅覚は必要ないものとして退化した。しかし、匂いが人間にとって大切な機能だったという名残はある。賞味期限が迫った食べ物を確認するため、人は無意識に匂いをかぐ。
「匂いによって昔の記憶を呼び起こされた経験を皆さんお持ちでしょう。『見る』『聞く』行為は『よい』『悪い』という理性的な判断をしますが、
匂いは『好き』『嫌い』しかない。きわめて感覚的なものなのです」
記憶の中枢と匂いの中枢は、脳の中でも割と近い位置にある。だから、コーヒーの香りは人の気持ちを揺さぶったり、過去の出来事を呼び覚ますことがあるのだ
ストレスの処方箋になる
現代社会はストレスに満ちているが、香りはその処方箋としても効果がある。
ストレスが蓄積すると、うつ病や自律神経失調症などの原因になる。ストレスは「デイリーハッスル」と呼ばれているように、日々の小さなトラブルによって生まれる。ストレスとうまく付き合っていくには、Rest(休憩)、Relaxation(癒し)、Recreation(活性化)の「3R」が必要だ。
「ストレスはマイナートラブルですから、溜めることが一番危ない。そのつど上手に取り除いてあげることが大事で、翌日に持ち越すことは避けるべきです。そして、ストレスから逃れるのに最もよい方法は『一瞬ほかのことに夢中になる』ことです」
スポーツジムで運動する、油絵を楽しむといったことでも効果は期待できるが、手軽さという点ではハードルが高い。そこで古賀教授はコーヒーを推奨する。
「まず自分でコーヒーを淹れるために、短時間でも作業から離れるので休憩できます。香りの効果でリラックスもできる。しかも、コーヒーを淹れるという作業には、お湯を沸かしたり、コーヒー豆を挽いたり、豆の量とお湯の量を考えあわせたりといったレクリエーションとしての楽しみがある。『3R』をすべて満たしているコーヒーは、ストレスを逃がすにはとてもよい手段なのです」
コーヒーの香りそのものにリラックス効果があるうえ、飲むことが休息になり、飲むための準備自体も楽しみになる――。たしかに「一瞬夢中になる」行為に違いない。
ストレスは、その原因を取り除くことが難しい。上司と喧嘩をしても会社を辞めるわけにはいかないし、工事現場の騒音が嫌でも工事をストップさせることは困難だ。対処するしかない。
「ストレスに『解決』はないのです。うまくストレスを逃がすためには、自分なりの方法を考えておくことですね。それも一つではなくて、自分の楽しみとしていくつかの手段を用意しておけば、より効果的でしょう」
上手に使えば、香りは人間の気持ちを動かすことができるもの。だからこそストレスをやり過ごし、人間本来の活力を取り戻すことも可能となる。
コーヒーという身近な飲み物を活用して、ひとりでも多くの人に健康的な生活を送ってほしい。
全日本コーヒー協会資料より
古賀良彦(こが・よしひこ)掲載より引用
杏林大学医学部精神神経科学教室教授。医学博士。1946年東京生まれ。71年慶應義塾大学医学部卒業。76年杏林大学医学部に転じ、助教授、主任教授などを経て現職。精神保健指定医、日本ブレインヘルス協会理事長なども務める。